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私が歌川です

@utgwkk が書いている

人はなぜ考え、どのように生きるのか、我々を待っているのは何者なのか

はじめに

この記事は ポエム Advent Calendar 2015 - Adventar 23日目の記事です。

この記事に書いてあることを鵜呑みにしないでください.全部間違えてます

www.adventar.org

導入

人はなぜ考え、どのように生きるのか、我々を待っているのは何者なのか。あなたは、人生において、これらの問いに対する答えについて、考えたことがありますでしょうか。おそらく、大多数の方は、そんなことは全く考えたことがなかったか、あるいは中学生ぐらいの頃に少し考えたことがある、と予想されます。そうです中学校。人がそんなことばかりを考える時期は、ちょうど中学校に通っている時期と被っていることが多いということが知られていますね。

おっと失礼、話が逸れました。本題に戻りましょう。

第一の問い

第一の問いです。人はなぜ考えるのでしょうか? そもそも「なぜ」とはどういう意味なのでしょうか? ここでは、「なぜ」は、「どうやって」を意味するのではないとうことを断っておきます。ええ人の思考手段ではなく、人が思考をする根拠の答えを求めるということです。人は考えなければ行きていけないという言説をよく耳にしますが、それは本当なのでしょうか? 問いの発生源は疑うことです。疑いはあらゆる事象をよい方向に持って行くのに最適な手段です。Pascal は「人間は考える葦である」と述べました。この言葉は、より正確には次のように訳されてきました。

人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。

Pascal の考える人間、それは、考えるからこそ生きていける動物です。「思考する」こと――これこそが、人間以外の動物と、人間との性質の違いを決定づける要因となった、そういった西洋哲学的な思想がよく見える言葉です。

本当にそれで正しいのでしょうか?

我々はすでに、行き過ぎた西洋哲学的世界観がもたらした惨禍をこれでもかというほどに見てきました。あくまで私は、中立的視点から考えるというスタンスを取っているつもりなのですが……。たとえば、犬は思考しないのでしょうか? 猫は? 鳥は? 虫は? あるいは、アメーバでさえも? 思考をするのが人間だけであると断定できる根拠はどこにあるのでしょうか? ひょっとすると、あなたが根拠だと思っていたものは、トートロジーに過ぎなかったのではないでしょうか? つまり、人は思考する、だから思考するのは人だけなのだ、という思い込み、刷り込みがあったのではないでしょうか? ええ今もしそのようなことがあったのであればそれは仕方がない、ここで捨てておきましょう。思い込みは思考を阻害する毒です。我々はしばしば人間の優位性を提唱するために、暗黙のうちに他の種を貶める傾向にあります。それは良くない。では思考が人間のためだけの存在だというわけではないということを証明するために、一つの実験を挙げましょう。

犬、そう犬がいたとします。飼い犬であるか、野良犬であるかはここでは問いません。犬は、骨と骨付き肉をそれぞれ並べて置いたら、どちらの方に向かうでしょうか? あなたはもちろん、そんなの骨付き肉に決まっているじゃないか、何を言わせるんだ、と言うでしょうし、しょうもない思考実験だ、とがっかりすることでしょう。しかし本質はそこではありません。犬は、どうして骨と骨付き肉の内から、骨付き肉を選択することがデキたのでしょうか? おいしそうな匂いがしたから? 本能に訴えかけたから? ああ、そこです! それこそが思考の本質だ。つまりそれは、あなたは、犬が骨付き肉に向かったのは、脊髄反射であるとか、前頭葉の指示によるとか、そういうことが言いたいということなのです。思考とは、何も頭をひねってするものであるとは限らないのです。もしあなたが、結果を求めて行動を起こしたら、それは思考です。思考の根拠、それは結果を求めるから、なのです。

第二の問い

人はどのように生きるのでしょうか? 「どのように」、つまりここでは、手段と根拠の両方を問うことにします。そんなの、安寧を求めて、仕事をして生きていくのが人じゃあないのか、と言いたいことでしょう。それもまた一つの生き方ですが、要するに一つの生き方に過ぎません。安寧を求めない人もいます、仕事をしたくない人もいます、それが人間です。じゃあなんだ、そんなの答えのない問いだ? まあまあお待ちください。ここからが面白くなる。あなたが仮に、安寧を求めて生計を立てているとしましょう。果たしてそれは安寧を求めているといえるのか、私には甚だ疑問です。なぜって? そりゃああなた、自分の安寧のために、他人の安寧を奪うことを生きがいとしているじゃあないですか。まあまあそう怒らないでくださいよ。それにこれはあながち間違いではありませんよ。人間は権利を持っています。人間は自由です! 素晴らしいこと! しかし、同時に義務を持っていますし、また他人の権利をみだりに奪ってはならないという義務だってあります。これは一見すると矛盾しているように見えます。人と人、ぶつかり合って生きている。それなのに、どうやって、全国民が自分の権利を主張することができるようになるというのか? 答えは簡単です。つまりそれは――資本主義経済が実現してくれます。資本主義、それはまさに、人と人との争いを良しとする経済体制主義! 人間が、せめぎ合いの中かから、何を生み出してきたかは、あなたも学校や会社で習ったかと思われます。資本主義経済、もっと言えば、放任主義経済こそが、人の権利関係を勝手に調整してくれる、最高のパラダイムと化しているのが、現代社会。こんなにも優れた制度はないでしょう。おっとまた話が大きく逸れてしまった。ええとつまり、私があなたに伝えたかったこと、それは大きく次の二点に絞られます。すなわち、われわれは安寧を求めているように見えて、実際他人を蹴落として自分が上にのし上がることを無意識のうちに求めているということ、そしてそれこそがまさに人と人との権利関係の調整役となって、うまく働いているということ、この二つのことこそが大事なことであり、また第二の問いに対する答えとなっています。

第三の問い

我々を待っているのは何者なのか。 これが最後の問いです。死? 幸福? あるいは、無? 我々が人生の先に無意識のうちに求めているものは、本当にそこにあるのか? 人生は、一本道でございます。たといある点において過去の歴史を塗り替えることができたとしましても、過去においては、その歴史は依然として残ったままです。さきほど人生は一本道であると述べましたが、人生はそれでいて、連続的な直線・曲線ではありません。むしろ、離散的な点の可算無限集合と言う方がふさわしいです。われわれが歴史を塗り替えたと言ったとき、それは直線のある点以降の色を変えたかのように思えて、実際のところはある一点に色を塗っただけに過ぎないのです。我々を待ち受けているもの、それを変更するには、無限個の点を塗り替える必要があり、これは多大な労力を必要とし、それでいて見返りはそれに見合わないことが殆どです。おっと! そうであるからといって、あなたが落胆する必要は、どこにもありませんよ。大丈夫です、一歩一歩を塗り替えていけば、そのうちは……。また話が逸れてしまいました。つまり、未来のことも過去のことも、そう容易くは塗り替えることはできないということを主張したかったに過ぎないのです。我々を待っているのは、それこそ不動点として近似することができる、いわば運命的な「何か」です。ではその「何か」とは一体何なのか? それは、まさに「無」です。あなたを待ち受けている「無」、ああ、それこそが人生の結論なのでございます。人はすぐに、未来世代に対して何かを残したがります。ああ勘違いも甚だしい! われわれは、未来世代に何かを伝えたつもりになっていますが、実際何も伝えられません。その人が生きていたという事実、ただそれだけが未来に伝わるに過ぎないのです。それ以外のこと、それはもはや、未来世代の考えに身を委ねるよりほかにありません。よく、「文学は独り歩きする」といいたことが主張されますが、それに非常に似ています。われわれが生きていたという事実、そこから、未来世代は、いろいろなことに思いを馳せていきます。それはときにひどい間違いであるかもしれません。しかし、もはや我々にはそれを訂正する権利も手段も残されていないのです! 「無」に取り込まれた以上、われわれにできるのは、「無」に身を委ねることしかありません。悲しいかもしれませんが、これが第三の問いに対する答えなのです。

終わりに

皆様いかがでしょうか。これが、答えなのです。人は運命に抗うことはできませんし、また並行世界は自分のものにすることはできません。それでもなお、われわれが生きるのは義務付けられているのでございます。あなたは幸福だ、間違いを犯し続けていたことを自覚することができたのだから。どうかこれを他の人にも教えてやってください。あなたがソクラテスとなってしまうかもしれません。しかし真理はそこにあります。すべては我々がまだ歯車だった時代まで遡ることになりますが、それはまた別の機会にお話ししましょう……。それでは。

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